「LEIMEI−黎明−」によせて
月花麗人社は、平成15年7月8日(火)に日本橋劇場に於きまして、舞踊家坂東遥の吉祥大和舞公演「LEIMEI」-黎明-を開催いたしました。 坂東 遥は、坂東流志賀次派家元として、古典の伝播の為の創作活動を行うと同時に、舞踊家・振付家として條文子名で自由な表現の追求を、創作ダンスの世界で展開し、高い評価を浴びて参りました。それらの舞踊活動を発展させて、日本古来の舞と呼吸、自然界の鼓動を一つのものとした「吉祥大和舞」を98年に創流します。「吉祥大和舞」は、その表現の可能性はもとより、心身の調和を図る事で健康を維持するという点が、創流以来ワークショップや吉祥大和舞の会において多くの参加者を生み出しております。
 
■煌めく「直感の才能」 宮崎哲夫(史家)
私は曾て、日本の藝能を支那の「五行説」で読み解こうとしたことがあります。
典拠本は、初代河原崎権之助の「舞曲扇林」。
今から三一七年前の、舞踊心得秘帳とも言うべき本で、これを「五行の氣配」で理解しようとしたのであります。 いささか牽強附会のきらいがないでもありませんが、然し宇宙の脈動、森羅萬象の氣配を説く「五行説」と、日本藝能とは、何か底知れぬ深窈のつながりをもっているように思えました。
(神様から生まれた芸能とその流行〜芸能の発祥と発展〜宮崎哲夫著 延壽館版)

坂東流志賀次派四世家元の、坂東 遥さんの藝能を観るとき、彼女は宇宙の脈動を心髄的に収攬しているように思えるのです。その藝姿の頭首、腹背、手足から、はるか空明に向かって、ゆらぐように触官が伸びて、宇宙の脈々を把捉しているように観て取れるのです。
それはまさに遥さんの「直感の才能」が煌めく瞬間でもあります。
彼女の藝姿に観取される「宇宙の脈動への直感」こそ、日本藝能が深奥に秘めた真髄姿ではなかろうかと
私には思えるのです。

坂東 遥さんの「これからも!」を感激をもって楽しませてもらえる幸せを、吾人らは天に感謝するものであります。
■「LEIMEI」公演に寄せて 江樹一朗(作家)
 「富士心神」という言葉がある。
変容する富士の姿にそれぞれの心の神を思い描けという事らしい。
坂東 遥さんの創造世界と、存在そのものの気高さは、20有余年の知己で保証する。
「吉祥大和舞」を心と身体のバランスに位置付ける辺り、雲の高みを目指しても、足は大地を踏み締めて、まさに富士心神の如く。
夏の一夕、爽やかな一時に身を置くことをお薦めしたい。
江樹一朗 日本MJP株式会社取締役。タイ王国NGO団体FAE(アジア象の友達)を
一個人として支援している
著書:「モタラの涙」、「地雷を踏んだ象モタラ」(廣済堂出版)小学校国語教科書
■芸の究極 井上てつひこ (アルゼンチンタンゴ舞踏団「黒猫」代表)
たくさんの芸術家、芸能人の中で、ときたま芸の究極を極めたやに思われる人を拝見することがある。そうした時、芸のジャンルは違っても到達点は同じなんだなと思ってしまう。つまり、そういう人の芸に接すると、それが今迄あまり興味のなかったジャンルであったとしても、目が洗われる思いがし、自らの蒙が快く開かれてゆく充実を感じるのだ。坂東遥さんはそういう人の一人だと私はかねてより思っている。

彼女が属している日本舞踊というジャンルは(私がやっているアルゼンチンタンゴに比べると)、音楽はのろのろしているし、やたらと長いし、動きはかんまんだし、感情表現も抑制がききすぎている。衣裳は美しいが、衣裳という拘束衣の中に人間が捕らえられているようにも感じられる。余談だが、日本舞踊に将来はあるのだろうか?ところが、彼女の日本舞踊は、そうした、いわばいくつかの障害の奥に燦然と輝く境地を確立している。

彼女が観客を誘ってゆく世界は、バッハやヴェルディやトルストイや、あるいはタンゴの世界でいうなら、ファン・カルロス・ロぺス、タップダンスの世界でいうならジーン・ケリーと同等に、私には思える。もし宇宙のどこかに芸術の神様がいるとするなら、人数は一人だろう。その代わり直弟子たちがいるのだ。そして弟子ではなく、それもどきは無尽蔵にいる、というのが芸術、芸能の世界のように思えてならない。坂東 遥さんは、そうした芸術の神様の直弟子の一人だろう。
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